Behind The Scenes

シスジェンダーじゃなくて人生詰んだ奴のぼやき。

遭難信号

 言葉になるかはわかりませんが、『シモーヌ(Les Simones) VOL.5』(現代書館)「時計の針を抜く トランスジェンダーが閉じ込めた時間」の感想を書かなければならないと感じたので。

 

 まず、めちゃくちゃありがたいことにこの本は髙井ゆと里さんから頂戴したものだ。頂戴したので拝読し、ひとまずお礼のメッセージとごにょごにょした感想を送り付けたのだが(それもだいぶ遅れてしまったけれど)、なんとなくどうしたらいいかわからないままの自分がずっといる。でもこのある種の「気まずさ」は今の自分が他の作品にも抱いているもので、掘り下げてみてもよいように思うので、勝手な自分語りをしながら感想を述べていきたい。

 そもそもの話として、自分は、ある意味ではシスジェンダー以外の人々にかんする情報を欲し、ある意味ではそれを忌避しているのではないかと思っている。話題の『片袖の魚』だって、観ていない。こわくて観れない。Netflixの『POSE』も1話の途中までしか観ていないし、『Disclosure』も途中までしか観れていない。とにかくこわい。なにがこわいって、社会的に意義があってコミュニティにも支持されているこれらの作品を自分が好きになれなかったら、なにか大きなものを失ってしまうのではないかと思うからだ。ちゃんとエンパワメントされることができるのか不安でたまらないし、万が一にも心の拠り所のようにしてマイノリティたち(この場合はトランスジェンダー)を応援する作品に感情移入できなければ、これらを好きじゃないなんて思ったりしたら、どうしようもなくなってしまうのではないか。
 一般論として、任意の作品を好きになる必要などどこにもないということは理解できていると思う。『鬼滅の刃』も『呪術廻戦』も『イカゲーム』も観ていないが、べつにこわくはない。ただ観ていないだけ。
 話が逸れるようだが、この恐怖感はクィア・カルチャーとの付き合いのなかで生まれてきたのかもしれないと思う。みんなが好きと言う『Glee』は1話の途中で挫折してしまった。我慢して観続ければ素晴らしい作品ということが理解できるのかもしれないが、単純にあの手のドラマを普段観ないので、よくわからないし、自分の物語として享受できない。結局のところ、自分がコミュニティの一員のはずで、その理念には共感し支持したいと考えているのに、自分とかけ離れた物語ばかりが神聖化されていて、どこにも自分の物語がないと感じてしまうのだ。
 みんなが良いって言うからきっと良いんだろうという気持ちで、俺は観てないけどめっちゃ良いらしいよと人に勧めたりすることさえあるけれども(ある種の社会運動として)、こういうカルチャーからはみ出してしまう人、ここに自分がない人たちはどうやって生きているのだろうかと気になって、ひとまず自分からこの話をしてみることにした。

 こんな感じの人間なので、「時計の針を抜く トランスジェンダーが閉じ込めた時間」も、読んでちゃんとみんなみたいな反応できるかなとか心配ばかりが募ってしょうがなかった。きっと読んだほうがいい素敵な内容なのもわかっているし、もしかしたら感動するかもしれないし、そうでなくとも文献として読めれば有難いわけで。

 そうして読んでみたら、俺でも読んだことのあるような、わりと有名どころと表現したいような方々の文章が引用されていた。その人たちは(この本を読む前から)素敵な人たちと認識している。ゆなさんの文章は俺も大好きだ。よるの空さんの文章は読んだことがあったけど、どういう結末を迎えていたのかは知らなかった。あきらさんのエピソードで出てきた、死ぬかトランジションするか、という2つの選択肢しかない状況は身に覚えしかない。戸籍名を変えるまでの約20年間は前世なのでノーカン=人生に算入しないものとすると思っているので、自分も時間を超越しているのかもしれない。パンデミック初期は今感染したら戸籍上の性別だけが物理的な年齢とともに自分の代名詞のように報じられてしまうかもしれないと思い、感染症対策にはかなり神経質になっていたし、そんな不名誉はどうしても無理だった。トランジションはしつつあるが、自分にもゴールはなく、なんとなく社会と折り合いがついて自分も苦痛にならない範囲を探している。
 こんなことをポロポロと考えていた。ただそれが自分の物語と受け止めることはたぶんそこまでなかったように思っている。いつもそう。ここに自分のことが書いてある!と思うのはプリーモ・レーヴィの文章だったり、『その後の不自由』(医学書院)だったり、『帰還兵はなぜ自殺するのか』(亜紀書房)だったり。戦争に行ったことはないし、アウシュヴィッツから帰ってきたことももちろんないのに、なぜか自分の物語がそこにある。だからそのことを研究していると言えばそれまでなのだが、それでもこう、研究テーマとは逆の、トランスの物語が自分の物語として感覚されないことは筆舌に尽く難いものがあって、なぜこうなってしまうんだろうと漠然と考えることがある。
 誤解してほしくはないのだが、本当に有難く拝読している。素敵な内容だと思うし、たくさんの人に読まれてほしい。それはそう。さすがにこわくてゆと里さんにこのブログのURLを送り付ける勇気もないが(お世話になっているのにすみません)、なにか否定的な話をしたくてこのことに言及しているわけではない。
 でも、どう言ったらいいのかわからないが、まだ自分は物語られていない。自分を自分にしている属性はきっとまだ物語られていないのだ。

 ジェンダーの意味での属性は、生活していくなかで、ミスジェンダーを避ける努力をするなかで、どうしても重要なものとなってしまう。こういう言い方が適切かはわからないが、バイナリーでないから尚更。だから良いか悪いかはともかくそれも自分の皮膚のようななにかで、切られたら痛い、神経の通った自分の一部になっている。にもかかわらず、例えばトランスジェンダーの方のブログを読んで泣いたりするにもかかわらず、この属性が持つ意味が、他の同じ属性の大多数の人(?)とはちがうような気がしている。そんな居心地の悪さがいつもあって、コミュニティとは距離を置いている。こっそり見ている人もいるし、信頼している方もたくさんいるけれども、ぜんぜんわかり合えないじゃんとなるより、遠くからひっそり敬愛していたいなぁと思っている。可視化されていないだけで案外こういうタイプも多いのかもしれないけれど、どうなんだろう。

 

 普段ずっと思っていたこと、思っていたけどこわくてずっと書けなかったことを書いてみた。まだまだ言葉になっていない部分も多いし、まとまりがない。ついでに言うと、今もうとても眠いので普段より余計に頭が回ってない。珍しく眠いオブザイヤー受賞できそうな状態なので、寝に行きます。うまい終わり方が見つからないけど、しょうがないね。おやすみ。おはよう。よい1日を。