Behind The Scenes

シスジェンダーじゃなくて人生詰んだ奴のぼやき。

#大学生の日常も大切だ 、安易なオンライン否定や陰謀論と結びついてムーブメントとしては失敗しちゃって残念、というのが個人的な見解。

 この2年間の研究科への不満みたいなものをメールにする機会があったのですが、気持ちはわかるけどあの人たちはあなたの人生に興味がないしどうしようもないだろうから研究に専念するのがいいと思う(意訳)的な反応しか得られなかったので、どうせ書いたし、ということで公開します。なお、具体的な要望は前向きに検討するとのことでしたし、本文をお読みいただければわかるように、このメールの送付先にあたる教員個人には何の恨みもありません。

○○さま

先日はお忙しいなか、また不躾な質問にご丁寧なご返信を誠にありがとう存じます。
ご説明いただいた1つ目の理由*1は、おっしゃる通りだと思います。そこで疑問が浮かんでくるのですが、△△年度から××として着任された○○さま個人にはなんの責任もないことを理解したうえで担当者でおられるので申し上げたいのですけれども、関学の、あるいは社会学研究科のこの2年間に及ぶ不作為はいったい何だったのでしょうか。

そう申しますのも、自分は前年9月実施の第1次試験で進学が決定した2020年度入学者でして(後述する理由により現在は休学中)、その大半をオンライン化された授業以外では文字通り一切研究科の方々と交流する機会がないままに過ごしてきています。特に2020年春学期は現在院生会として持っているZoomの有料アカウントすらなく、社会的孤立から2年間住むつもりで契約した住居を半年で去らねばならないと決断して出身地である東京に逃げ帰るような有り様でした。授業中に発言しなければ、スーパーで「レジ袋いりません」と言う以外で誰とも会話ができないで過ごした半年間は、今振り返ってみても異様なものだったと思います。
加えて、ここまでの不作為ができる研究科を信用できるわけがありません。そのため関西にとどまることは心身を破壊する行為に思えてならず、対面授業が再開されても戻ることができませんでした。それでも、東京に戻ったあとに一度だけ対面で参加した経験がありますが、ゼミでは喋るときだけマスクを外す教員がいて(指導教員ではない)、都内の感染対策に慣れた自分には恐ろしくてたまらなかったことも判断に影響しています。しかしながら、これもまた大学や研究科の管理能力のなさによるものだと考えざるを得ません(院生よりも教員のほうが参加者の多いゼミでしたが指摘する人はいませんでしたので、院生の自分が指摘できるとも到底思えません)。
なにより、研究科が「場」としての大学を成立させるつもりがなかったことは明白でした。「場」としての大学を軽視し授業さえ提供すればよいという姿勢は、いわゆる耳学問だったり雑談を介しての人間関係の構築などの機会の面で不利益をもたらすことのみならず、大学をカルチャーセンターなどの講座で代用可能な存在に位置付け直す行為であるように思えます。むろん、そのように自らを貶めるようなことをする自由もあるせよ、本来であれば進学によって得られたはずの文化資本を諦めざるを得ないことの重大さを理解しているとは到底思えないような不作為を2年間も続けていたのが、ここにきて急にすべてを「リセット」するような対応に変わったことに、率直に申し上げて驚きを隠せないでおります。

また、ご聡明であろう○○さまには蛇足になってしまうかもしれませんが、このような指摘をしたときに当時は教員も大変だったとか苦労していたというような事情を持ち出して不作為を正当化する向きがありますけれども、そのことは教員と院生の立場の非対称性をまったく理解していないことの証明にしかならないことはあらかじめ言及しておきたいと思います。つまり、社会的にも経済的にもより優位な立場である(特に常勤の)教員すなわちマジョリティの事情を、より弱い立場に置かれたマイノリティである院生が考慮する責任はないのです。マジョリティの事情にも同情はしますがそれはマイノリティには関係のないことで、あえて喩えるならば、ジェンダー平等の訴えにたいして男性も大変なんだと返すくらいには関係がないことなのです(それはそれで別途解決すればよい問題のはずです)。
この点について申し上げたいのは、教員側に「余裕」がないのであれば、それは教員の責任において大学や国に支援を求めるべきで、院生に皺寄せがいくようなことになってはならなかった、ということです。そのような社会的責任を果たすことがないままに有耶無耶にできる立場であることの特権性、その特権性を自覚しないことで帯びてくる加害性について、研究科、少なくとも「社会学」研究科を名乗り続ける研究機関なのであれば、今一度考えていただきたいと思っています。
これまで述べてきたような背景によって、極度の社会的孤立により研究に専念できる環境ではなく精神的な健康が大きく損なわれたことが主な休学の理由となってくるわけですが、さらに今年度になってまるでこの2年間などなかったかのように新学期早々xxxxが開催されていることに戸惑いを覚えています。開催すべきでないということではもちろんなくて、理解が追い付かないという感覚です。はっきりと申し上げて、研究科には不信感を抱いています。

なお、そもそも関学が対面での参加を強制していること*2は、個人的には人権侵害も甚だしいと考えていますが(個人的に高リスク軍の関学関係者を知っているだけに余計に)、今回はその議論には立ち入らないことにします。

長々と恐縮ではございますが、以上のようなことをお伝えさせていただきたくご連絡を差し上げた次第です。特に○○さま個人のお立場を考えるとこの問題に付き合うべきとは思えませんので心苦しさもある一方で、xxxxのご担当でおられること、また前回頂戴した返信からどうやら誠実な応答をしてくださる方と判断できることから、今回このようなメールをお送りさせていただくこととなりました。
プロテストをしなければ人権を勝ち取ることができない(そうしたとて、できるかすらわからない)現状はなんとも悲しいものではありますが、自分だけが「サバイブ」できればよいと考え問題から目を逸らし適応する道を選ぶことができるならばそもそも研究はしていないだろうと思っているので、面倒な人間がいることは研究科の宿命のようなものと捉えていただければ幸いです。

具体的な要望にするのであれば、親切にもご提案くださったように今後はオンラインでも開催すること、より積極的に「院生全体として、高め合っていけるような関係性を構築する」機会を提供すること、というかたちになるのだろうと思いますが、研究科としてこれまでの不作為にも真摯な応答ができるのであればそれに越したことはありません。対話ができる研究科であること、なにより知的に誠実な研究科であることを願っています。


 これは大学院に入ってからがっかりしたことのひとつでもあるのだけど、知的に誠実なのは論文のなかだけ、研究のなかだけ、で、それ以外ではあーそれができちゃうんだっていうところがけっこうあったりして、そういう言動で研究者という肩書きや「〜学」なんていう看板掲げて恥ずかしくないのかな?と思うことがそれなりにあって。この手の「大人の事情」を忖度する能力をもうちょっと身に付けないと社会では生きていけなさそうということも同時に感じているわけだけど、そうはいってもねぇ、と思うわけです。大学のなかだからこそ話が通じたり、外の世界よりは「マシ」なこともたくさんあるとはいえ、なんだか付き合いきれないような気分にはなるし、かといって周囲を黙らせるほどの実力を身に付けてやる!的な能力主義的欲求もないので(10代初期に発症したうつ病とか、それ以外にも非定型発達とかなければまたちがったかもしれないけど)、つくづく生きることに向いてないな〜という結論しか得られません。すぐに死のうと思っているわけではないけれども、自分にとっての社会として存在しているものたち(=研究科、家族と呼ばれる人々、日本という国等々)にたいしてWhat have I done to deserve this? みたいな気持ちがあるのは事実なので、まあそこらへんのことは追々考えていくつもりです。

*1:対面のみでイベントを開催した理由の1つ。「参加者の人間関係の構築」のため。

*2:去年度までは持病等を理由にしてのオンライン受講が認められていたが、2022年度にオンラインで参加できるのは「国外にお住まいの方で、渡日のためのビザの発給停止等によりお住まいの国や地域から日本への出入国に制限がある方のみ」。

自分と関わることのある人は知っておいたほうがいいかもしれない話。

 ジェンダーについてではなく。人生というか生活がどうしようもなくなってしまっていることについて。

 今も酒を飲んでいる。酒と一緒に薬を飲んでいる。だから、個人的にはODと言えばオーバードーズで、オーバードクターのことではなかったから、院に入ってからちょっと驚いた笑

ちゃんとメンタル・クリニックには行っているし、いろいろ気を付けて生活もしているけれど、基本的にひとりでどうにかしなければならない環境なので(どーしても必要だと認められればお金は親が出してくれる)なんだかなぁって。

 

 ここまで依存するつもりじゃなかったのに、とは思う。でもそれは論文とか読んで知ってて言ってることで。つまりどういうことかというと、パンデミックという予想外のことがあって、大学がオンラインになるとわかった頃には引っ越しはキャンセルできなくて、よく知らない土地にひとりで暮らして、授業やゼミはオンラインであって、それ以外はとても孤独で。スーパーに買い物に行って袋入りませんと言うのが、日々のなかでの唯一の会話だった。

 ついでに言うと、親にメッセをしても既読無視が普通で、返信があったとしても数回に一回。

 

 社会的に孤立しました。それは今でも半分くらいはそうなのかもしれない。それで、酒でも飲むしかないかとなり、薬でも飲むしかないかとなり、どうにか依存に抵抗はしつつも今に至ります。

 昔は誰かに助けてほしいと思っていたかもしれないけど、今はそれはないとわかっているので、死なない程度にできたら素晴らしい、ということにしています。さみしさは埋めていいし、苦しみは吐き出していい。ODだってたまにならやったらいい。自分の責任でね。がんばれよ。

 

改めまして、ぽです。

 はてなはid以外にもHNが設定できるようなので、ひとまず「ぽ」と登録しました。なのでまあ、ここでの名前は「ぽ」ということになるのだと思います。
 「ぽ」と言うと、最近話題(?)のカタカナ表記のポさんが思い浮かぶ方もいらっしゃるかもしれませんが、まったく関係ありません。数年前からLINEの登録名が「ぽ」で、その前の登録名が由来になっています(その前の登録名は、ここでは秘密)。

 というだけの話がしたくて更新したので、特にオチはありません。みなさま、よい1日を。

遭難信号

 言葉になるかはわかりませんが、『シモーヌ(Les Simones) VOL.5』(現代書館)「時計の針を抜く トランスジェンダーが閉じ込めた時間」の感想を書かなければならないと感じたので。

 

 まず、めちゃくちゃありがたいことにこの本は髙井ゆと里さんから頂戴したものだ。頂戴したので拝読し、ひとまずお礼のメッセージとごにょごにょした感想を送り付けたのだが(それもだいぶ遅れてしまったけれど)、なんとなくどうしたらいいかわからないままの自分がずっといる。でもこのある種の「気まずさ」は今の自分が他の作品にも抱いているもので、掘り下げてみてもよいように思うので、勝手な自分語りをしながら感想を述べていきたい。

 そもそもの話として、自分は、ある意味ではシスジェンダー以外の人々にかんする情報を欲し、ある意味ではそれを忌避しているのではないかと思っている。話題の『片袖の魚』だって、観ていない。こわくて観れない。Netflixの『POSE』も1話の途中までしか観ていないし、『Disclosure』も途中までしか観れていない。とにかくこわい。なにがこわいって、社会的に意義があってコミュニティにも支持されているこれらの作品を自分が好きになれなかったら、なにか大きなものを失ってしまうのではないかと思うからだ。ちゃんとエンパワメントされることができるのか不安でたまらないし、万が一にも心の拠り所のようにしてマイノリティたち(この場合はトランスジェンダー)を応援する作品に感情移入できなければ、これらを好きじゃないなんて思ったりしたら、どうしようもなくなってしまうのではないか。
 一般論として、任意の作品を好きになる必要などどこにもないということは理解できていると思う。『鬼滅の刃』も『呪術廻戦』も『イカゲーム』も観ていないが、べつにこわくはない。ただ観ていないだけ。
 話が逸れるようだが、この恐怖感はクィア・カルチャーとの付き合いのなかで生まれてきたのかもしれないと思う。みんなが好きと言う『Glee』は1話の途中で挫折してしまった。我慢して観続ければ素晴らしい作品ということが理解できるのかもしれないが、単純にあの手のドラマを普段観ないので、よくわからないし、自分の物語として享受できない。結局のところ、自分がコミュニティの一員のはずで、その理念には共感し支持したいと考えているのに、自分とかけ離れた物語ばかりが神聖化されていて、どこにも自分の物語がないと感じてしまうのだ。
 みんなが良いって言うからきっと良いんだろうという気持ちで、俺は観てないけどめっちゃ良いらしいよと人に勧めたりすることさえあるけれども(ある種の社会運動として)、こういうカルチャーからはみ出してしまう人、ここに自分がない人たちはどうやって生きているのだろうかと気になって、ひとまず自分からこの話をしてみることにした。

 こんな感じの人間なので、「時計の針を抜く トランスジェンダーが閉じ込めた時間」も、読んでちゃんとみんなみたいな反応できるかなとか心配ばかりが募ってしょうがなかった。きっと読んだほうがいい素敵な内容なのもわかっているし、もしかしたら感動するかもしれないし、そうでなくとも文献として読めれば有難いわけで。

 そうして読んでみたら、俺でも読んだことのあるような、わりと有名どころと表現したいような方々の文章が引用されていた。その人たちは(この本を読む前から)素敵な人たちと認識している。ゆなさんの文章は俺も大好きだ。よるの空さんの文章は読んだことがあったけど、どういう結末を迎えていたのかは知らなかった。あきらさんのエピソードで出てきた、死ぬかトランジションするか、という2つの選択肢しかない状況は身に覚えしかない。戸籍名を変えるまでの約20年間は前世なのでノーカン=人生に算入しないものとすると思っているので、自分も時間を超越しているのかもしれない。パンデミック初期は今感染したら戸籍上の性別だけが物理的な年齢とともに自分の代名詞のように報じられてしまうかもしれないと思い、感染症対策にはかなり神経質になっていたし、そんな不名誉はどうしても無理だった。トランジションはしつつあるが、自分にもゴールはなく、なんとなく社会と折り合いがついて自分も苦痛にならない範囲を探している。
 こんなことをポロポロと考えていた。ただそれが自分の物語と受け止めることはたぶんそこまでなかったように思っている。いつもそう。ここに自分のことが書いてある!と思うのはプリーモ・レーヴィの文章だったり、『その後の不自由』(医学書院)だったり、『帰還兵はなぜ自殺するのか』(亜紀書房)だったり。戦争に行ったことはないし、アウシュヴィッツから帰ってきたことももちろんないのに、なぜか自分の物語がそこにある。だからそのことを研究していると言えばそれまでなのだが、それでもこう、研究テーマとは逆の、トランスの物語が自分の物語として感覚されないことは筆舌に尽く難いものがあって、なぜこうなってしまうんだろうと漠然と考えることがある。
 誤解してほしくはないのだが、本当に有難く拝読している。素敵な内容だと思うし、たくさんの人に読まれてほしい。それはそう。さすがにこわくてゆと里さんにこのブログのURLを送り付ける勇気もないが(お世話になっているのにすみません)、なにか否定的な話をしたくてこのことに言及しているわけではない。
 でも、どう言ったらいいのかわからないが、まだ自分は物語られていない。自分を自分にしている属性はきっとまだ物語られていないのだ。

 ジェンダーの意味での属性は、生活していくなかで、ミスジェンダーを避ける努力をするなかで、どうしても重要なものとなってしまう。こういう言い方が適切かはわからないが、バイナリーでないから尚更。だから良いか悪いかはともかくそれも自分の皮膚のようななにかで、切られたら痛い、神経の通った自分の一部になっている。にもかかわらず、例えばトランスジェンダーの方のブログを読んで泣いたりするにもかかわらず、この属性が持つ意味が、他の同じ属性の大多数の人(?)とはちがうような気がしている。そんな居心地の悪さがいつもあって、コミュニティとは距離を置いている。こっそり見ている人もいるし、信頼している方もたくさんいるけれども、ぜんぜんわかり合えないじゃんとなるより、遠くからひっそり敬愛していたいなぁと思っている。可視化されていないだけで案外こういうタイプも多いのかもしれないけれど、どうなんだろう。

 

 普段ずっと思っていたこと、思っていたけどこわくてずっと書けなかったことを書いてみた。まだまだ言葉になっていない部分も多いし、まとまりがない。ついでに言うと、今もうとても眠いので普段より余計に頭が回ってない。珍しく眠いオブザイヤー受賞できそうな状態なので、寝に行きます。うまい終わり方が見つからないけど、しょうがないね。おやすみ。おはよう。よい1日を。

経緯と事情

 これまでネット上にいろいろと文章を晒してきてはいたが、この名前でそれをするつもりは一切なかった。けれどもまあ、人生がもうどうしようもないですねという状態かついろいろと必要に迫られた結果なので、就活の一環くらいのつもりでなにか書いてみることにする。

 ちなみにこの名前でオンライン上に存在したくないのには理由があって、出身大学の関係者にストーカーのようになった者がいて、自分が今どこでなにをしてるのか、もっと言ってしまえば、自分が今地球上で生きているのかさえ知られたくないから。だからこうしてidを取得しても積極的にはなれない。万が一のことがあって正当防衛としての暴力がアリなら勝てると思っているので差し迫った危険はないつもりだけど、ああいうのは本当になにを考えているのかわからないというか、時間が経ったから平穏が訪れたと考えられるのか判断に苦しむ。

 そんなわけなので、なにか呼び名を考えなくてはならないと思う。この名前で呼ばれないほうがよいのであれば、代わりになにか名前が必要なのだろう。